日本共産党
横須賀市議会議員

大村洋子

おおむら ようこ
一人ひとりが花開く“横須賀”へ
大村洋子
洋子の目

中国東北部の旅 瀋陽とハルビンに学ぶ③

2019年8月15日

旅の2日目、ハルビンに着いた夜には「日本人残留孤児養父母連絡会」の方々と夕食をとりながら交流しました。

日本は満蒙開拓団を組織して、長野県や山形県の地域では家族ごと集落こぞって中国東北部「満州」へ移住しました。そして、戦況が危うくなる中で命からがら日本へ逃げるわけですが、その際に小さい子どもを置き去りにせざるを得ず、その子どもを育てたのが、現地の中国の人々でした。

私と写真に写ってくださったおばあさんは養父母の方で94歳とのことでした。大変なご苦労をされてきていると思いますが、柔らかい笑みをたたえています。

今回の旅の仲間には、瀋陽で生まれ、母親の必死の逃避行で日本に来たという方もいました。彼女は当時5か月の赤ちゃんで、その後母親から聞き取りをして、お話を冊子にまとめました。それを多くの人に読んでもらっているとのことで、私も道中、読ませていただきました。

事程左様に戦争とは人の人生を狂わせるものだと感じました。

2日目ハルビン残留協会の皆さんと交流 (9)

3日目には「方正・ほうまさ」というところへ行きました。ここには「日本人公墓」がありました。この「日本人公墓」が建立されたのは1963年とのことで、日中国交回復の9年前でした。つまり、このお墓は侵略した側である日本人のたちが眠るお墓を侵略された側である中国の人々が建てたということになります。私はこの旅をはじめるにあたり、事前に配布された資料を読んでいたので、この地を訪れることができて本当に感無量でした。

資料にはこんなふうに出ていました。(要旨を私なりの言葉で)

日本に帰れず残留し現地で嫌々ながら中国人の妻となった松田ちゑさんという方がいた。夫とともに開墾できそうな荒地を探し回っていた時、白骨の山を見つけた。それは1945年から46年にかけて亡くなった日本人たちの白骨だった。

松田ちゑさんはこう言っている。

「私は、ああ国のために祖国をあとにした開拓の妻やこどもがこんな無残な姿とはあまりにひどすぎる。日本政府はこのような犠牲者の遺骨を知っているのだろうか。私は無念で胸が押さえつけられるようでした。」

そうして、ちゑさんは県政府に出向き、何とか自分たちの手で遺骨を埋葬したいと許可を願い出た。「開拓民だと称するが侵略者の手先ではないか」と願いを却下されてもおかしくない状況だったが、県政府は判断を黒竜江省人民政府に仰ぎ、省政府も中央政府にお伺いをし、外相・陳毅を経て周恩来総理の段階にまで行った。そして、最終的に周恩来は「開拓民といえども日本軍国主義の犠牲者である」と言って日本人公墓の建立を許可したのである。

資料には「当時の中国政府の指導者たちは毛沢東、朱徳、周恩来などの革命世代であり、狭隘なナショナリズムを超えた国際主義的な精神をもった人たちだった」と書いてあった。

 

私は最近の日本の排他的な風潮をみるなかで、どうやったら戦争を避けられるか、日本人が世界の人々と仲良くやっていけるかと考えるとき、それは世界市民主義(コスモポリタニズム)類的共同体意識ではないかと考えるようになりました。これは強烈な性善説に立って人間が人間を観るということです。言葉や口で言うのは簡単ですが、方正の日本人公墓の建立はそれを体現したものではないかと思うのです。核兵器の廃絶や原発の廃棄、石炭火力による地球環境危機回避、これらは「今だけ、金だけ、自分だけ」の論理では到底解決できず、どうすればみんながずっと幸福でいられるかということを真剣に考える位置に立たなければ解決不可能なことです。これは人類の存亡にかかわることです。私は、日本人残留孤児を育てた養父母の方々や方正の日本人公墓の建立を成した中国人たちの度量の深さを目の当たりにするとき、人間はそれらの困難を乗り越えられるのではないかという一筋の希望を見る思いがするのです。

3日目方正へ日本人公墓 (105)

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