一人ひとりが花開く“よこすか”へ
日本共産党横須賀市議会議員

大村洋子

おおむら ようこ

活動日誌

よこすか地域支え合い協議会の傍聴をしました。 横須賀市の高齢化率はすでに30%を超えていて超超高齢社会に突入。

2018年11月15日
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”少子高齢化社会”と言って丸めて言うことが多いが、何かに書いてあった、高齢化というのは寿命が延びて長寿の人が増えるということで、喜ばしいことだと。天災や戦争がなく、食糧が安定し医療技術も進めば、人間の寿命は延びるものなのだなと驚く。

本川達雄先生の「ゾウの時間ネズミの時間」に哺乳類は大きさに限らず心臓の鼓動数20億回で、だいたい寿命がやってくると載っていた。ゾウはゆっくりドキン、ネズミは小刻みにドキン。20億回心臓が鼓動すると、だいたい天寿を全うするという。この法則で考えると人間の20億回の平均は46歳だそうだ。そう考えると人間はただ一人、自然界の中に在って特異な存在ということだ。

人間は病気になっても薬で治し、骨折しても手術で治す。規則正しく食事をし、温かい場所で安心して眠る。だから、動物界の法則から逸脱して、長寿になってしまったのだろうか。

ゾウの時間ネズミの時間私の時間 (2)

とまれ、生まれるこどもが減って、寿命が延びて高齢者が増えているということは、アリストテレスが言うところのポリス的動物である人間にとっては忌々しき事態だ。

就労人口層が多ければ、納税額も安定し、少ない高齢人口を支えることは経済的にも人的にも余裕のあることだが、少ない就労人口層が多くの高齢人口を支えることは困難というより、不可能なことだ。そこで、政府は「住み慣れた地域で暮らし続ける」ためには「地域での支え合い」が大切と言い出したわけだ。「住み慣れた地域で暮らし続ける」とは、お金のかかる医療や介護の専門性に依拠するのではなく、在宅で、できれば向こう三軒両隣のお隣さんと「おたがいさま」の関係を築き、支え合いながら、まずは自分で頑張る=自助、そしてお互いさまで助け合う=互助・共助、そしてそれでも大変な場合は最後に公助。この構図をぶち上げた。

介護保険制度がますます改悪化し、要支援1.2が制度から外された。介護予防・日常生活支援総合事業がはじまり、住民が主体的にならなければいけないのだよと言われ、支え合い活動を展開することとなった。

厚生労働省が提唱する「我が事」「丸ごと」地域共生社会ってやつの流れである。

政府の考えは福祉にお金がかかりすぎるから、「持続可能」にするためには、これ以上の福祉予算の増大は食い止めなければならないということで、介護も公金をつかわずに国民が自ら支え合うように、医療もベッド数を減らすために在宅で療養させて、最期の看取りも病院ではなく自宅でということだ。

そんなの、福祉を削る前に、イージス・アショアとかオスプレイの高すぎる買い物を止めたらどうなのよと言いたい。そっちが先でしょと言いたい。それもやらずに、自助だ互助だ、「我が事」「丸ごと」とぬかすから怒り心頭となるわけだ。

「支え合い」とか「おたがいさま」は美しい。ほっこり温かい。悪いことだと言えるわけがない。

しかし、百恵ちゃん的に言うなら、動機が不純なんだ。

 

今日の協議会の中でも「個人情報保護があるから難しい」「町内会に入っていない、入りたくないという世帯もある」「行事を組んでも来ない人は来ない」というリアルな話が出ていた。

孤独死の話も出ていた。

 

この話の基盤を成す、憲法第25条生存権 

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

以前に議会でも取り上げたことがあるが、この条文のはじめのほうを解体してみると、主語は国民でありその国民の権利を謳っている。後半の条文の主語は国であり、国には義務を課している。つまり、平たく言うと、国民の暮らしがどうにもこうにも立ち行かなくなった際に国はその国民が食べて生きていくために、手立てを打たなければならないということだ。同じように社会福祉、社会保障、公衆衛生は国の責任ということだ。自助とか互助とかを国自らが初めに言うべきではない。憲法第25条の形骸化だ。

 

この基本を押さえておきながら、「地域支え合い」をこれからも注視していこうと思う。

介護保険納めているんだけどな・・・・ホント、使い勝手悪い。そのご意見よく聞く。持続可能のため仕方ないって、国も市も言う。制度が持続可能になっても、国民の暮らしが持続不可能になったら、元も子もない。